2009年06月23日

オープニング・クロージング

現在放送中(2006年6月?)のオープニング・クロージング(クロージングは道内全域で終夜放送が休止となる場合のみ。特定一部地域のみの休止を含むその他の日は定時放送後すぐフィラーを放送)はアニメーション制作によるonちゃんとその仲間たちが登場。HTBの社屋のイラストも描かれている。ナレーションも「onはようございます」、「onやすみなさい」と、onちゃんに因んだものになっている。
2008年7月24日以降はアナログ放送のみアナログ放送終了に関する告知を45秒間放送したあと、15秒間のオープニングを放送。デジタル放送はこれまでどおり変更はない。
1世代前(2003年5月?2006年5月)ではHTBのロゴは1968年開局当時の正式ロゴでなく、キャッチコピー用のロゴを使用していた。
2世代前(1999年6月?2003年4月)この世代からonちゃんを用いたアニメーション制作のオープニング・クロージングの使用を開始。

学力向上!漢字王国
白い花の花言葉
北の国・北海道マップ
暮らしの知恵袋
ラファエロのタレントになる学校選び
ハンズの野球のツボ
マーメイドの地図探し
ゆかいな塾の先生
炎神でアニメソングメドレー追跡
懸賞の秘密ちゃんねる
健康一番玉手箱
Carタイムへ急げ
芸能界デビューのチャンス
ひだまりの湘南ビーチ
奥様ご用達ご当地グルメ
仕事探しはここからスタート
初心者の投資問題解決!
姉妹の温泉三昧
フラッシュのオーディション参加
省エネルギーのコツを紹介
生活費の節約法
ドライブ計画サポートスペシャル

なお、1世代前と2世代前のオープニング・クロージングは発売されたDVD「onちゃん」で『おはようonちゃん・おやすみonちゃん』として収録されている。ただし、音楽とonちゃんのセリフはDVDオリジナルとなっているため実際の放送で流れていたナレーション・音楽とは若干異なっている。
特別例として、2000年12月に水曜どうでしょうの特番「サイコロ6ゴールデンスペシャル記念の30時間生コマーシャル」の中で、司会の大泉洋らが「JOHH-TV北海道テレビ放送です」とアナウンスしたことがあった。

フィラースタート?9:55(土曜は9:30、日曜は9:00まで)
(平日:「おはよう天気HTB」「やじうまプラス」「スーパーモーニング」内)
(土曜:「朝だ!生です旅サラダ」まで。但し、「ウドちゃんの旅してゴメン」では表示しない)
(日曜:「yes! プリキュア5」まで)
「おはよう天気HTB」「やじうまプラス」「スーパーモーニング」内および「朝までN天」はカスタム表示(CM中は通常表示)
平日15:45?18:55(「イチオシ!」)CM中は非表示
これまで通常表示は北海道の民放で唯一最後まで興和フォント(アナログ放送のみ。デジタル放送は後期丸サークルエッジ)を使用していたが、2007年5月下旬に別のフォント(デジタル放送とは若干異なる)に変わり、北海道内の放送局から興和フォントはすべて姿を消した。カスタム表示もアナログとデジタルでフォントは若干異なっている。ただし、ワンセグ放送はアナログ放送・デジタル放送(12セグ)がカスタム表示を行っていても、通常表示の後期丸サークルエッジのままで表示されている。
数字の切り替えはアナログは「クロスカット」、デジタルは切り替え部分のみ「フェードアウト?フェードイン」となっている。

開局以来、正午と19時に独特の音色で「ポーン」と時報音が鳴っていたが、1999年10月のマスター更新に伴い廃止された。

2009年06月09日

政党の歴史(せいとうのれきし)

アメリカ合衆国建国当時、政党はむしろ否定的に捉えられてきた。なぜなら、ジョージ・ワシントンを中心とするいわゆる「アメリカ合衆国建国の父」と呼ばれた共和派(フェデラリスト、後の連邦党)が、王党派や急進的な民主派をアメリカ独立戦争の過程で弾圧・追放する形で打ち立てていった一党独裁制国家だからである。ワシントンは、「我々には政党はいらない。なぜなら、我々は全て共和主義者だからだ」と述べたのはこの事をさしている。だが、幸か不幸かワシントンは指導者・軍人であっても政治家ではなかった。中央政府の強化を唱える財務長官アレクサンダー・ハミルトンと地方分権を重んじる国務長官トーマス・ジェファーソンの路線対立は、ハミルトンを支持する連邦党とジェファーソンを支持する民主共和党という2つの政党集団を生み出した。

元来、日本に置いては、党とは、私党を意味するもので児玉党や村上党などというように武士団を呼ぶ用語であった。幕末から明治維新にかけて、国内的には、「土佐勤王党」などの公論を主張した党派の誕生、対外的には欧米列強の政治体制に触れる中で議会政治における政党システムに着目するようになり、党という用語の意味が変貌を遂げる。安政6年(1859年)福澤諭吉が英国議会を傍聴した際、議会内で激しく論戦を繰り広げていた与野党の議員が、議場の外では、和やかに談笑していることに驚いたことを紹介しているは、議会政治と政党に触れた当時の日本人の視点を良くあらわしている。

明治7年(1874年)征韓論政変で下野した板垣退助らは愛国公党を結成し、政府に対し「民撰議院設立建白書」を提出した。これを契機に、薩長藩閥による政権運営(いわゆる「有司専制」)に対する批判が全国に澎湃として起こった。これが、自由民権運動である。

自由民権運動の過程では、全国各地に政治結社が結成され、これらの中には、急進化して各地で不平士族と結びつき、内乱を起こすものも出た。しかし、明治10年(1877年)の西南戦争で不平士族が敗北し、明治政府を武力で転覆することが挫折し、言論による闘争が志向されるようになっていく。
スノーボード
ベジタリアニズム
キャラクター
絵画
甲殻類
潮干狩り
相撲
就学前教育
月経
緩歩動物
エイズ、HIV感染
信越地方
切り絵
鳥類
新婚旅行
盆栽
夜景
御節料理
カーナビゲーション
里山

勃興する自由民権運動に対して、明治14年(1881年)明治天皇の御名で「国会開設の勅諭」が下り、明治政府は、明治22年(1899年)に議会を開設することを国民に約束した。これにともない、明治14年自由党が板垣退助を中心として、翌明治15年(1882年)立憲改進党が大隈重信らによって結成される。また、福地源一郎ら親政府の要人による立憲帝政党も結党された。だが、政府は「超然主義」の方針を打ち出す一方、自由民権運動の弾圧強化に乗り出した。このため、自由党は一時解散に追い込まれ、立憲改進党は分裂状態となり、立憲帝政党も政府から見捨てられる形で自然消滅を余儀なくされた。

明治22年(1889年)大日本帝国憲法の公布とともに、衆議院議員選挙法が公布され、25歳以上で納税15円以上の男子に選挙権が与えられた。翌明治23年(1890年)7月1日第1回衆議院議員総選挙が実施され、立憲自由党、立憲改進党などの民党が議席の多くを占め、反民党勢力(結果的には親政府派となる)温和派(吏党)は少なかった。

選挙後、第一回帝国議会が開会された。政府は当初「超然主義」をもって対議会・政党に対する基本姿勢としていたが、大日本帝国憲法自体が議会の協賛なくして重要な決定が出来ない仕組みとなっていたため、この路線はすぐに行き詰まった。このことに気付いた政府側は選挙への大規模干渉や金銭・あるいはポストによる、政府に批判的な民党及びその幹部達の買収工作を行って懐柔に務めざるを得なくなっていった。また、条約改正などの論議から民党が政府支持に回り、吏党が反対に回るケースもあり、「民党・吏党」に替わって「与党・野党」と呼ばれていくようになる。

2009年06月06日

乱は景勝の勝利に帰したが

乱は景勝の勝利に帰したが、深刻な負の影響を残した。まず血で血を洗う内乱のため、上杉氏の軍事力の衰退は否定しようがなく、織田信長などの周辺強豪勢力からの軍事侵攻に苦慮することになる。また恩賞の配分を巡り、景勝方の武将間にも深刻な対立をもたらした。

戦後に与えられた恩賞は、景勝の出身母体かつ権力基盤である上田衆に多く与えられたため、恩賞を巡るトラブルで安田顕元らが非業の死を遂げ、さらには不満を抱いた新発田重家が蘆名盛隆・伊達輝宗に通じて自立する。この反乱鎮圧には実に7年もの歳月を要した。

加えて、この内乱の隙を突いて信長配下の柴田勝家が上杉領及び同盟勢力である加賀や能登、越中を席捲し、会津からも改めて蘆名盛隆が侵攻してくるなど、この御館の乱は謙信時代に培われた上杉家の勢力と威信を大きく後退させたのである。

御館の乱は、武田家滅亡の遠因にもなった。氏政は、実弟(異説もある)の景虎への支援を同盟者の武田勝頼に依頼した。当初、勝頼は景虎を支援して自ら出陣したが、その後景勝支援に回る。その理由として、隙をついた徳川家が遠江・駿河方面に侵攻してきたこと、北条氏の景虎救援の動きが鈍く消極的なことから同盟者としての信頼が揺らいだこと、景虎の勝利により北条家が勢力を拡大させること(具体的にいえば、上杉家と北条家が一体化することで三日月を描くように武田領が包まれる形)を警戒したこと、景勝が講和条件として上野沼田領の割譲と黄金の提供とを申し出たこと等が挙げられる。

これに対し、越後の豪族達の支持を得る必要性があった景虎は、逆に勝頼に北信濃等の譲渡を求めていた。これにより、武田家中では景勝との和睦を支持する声が強まり、勝頼は景虎を裏切って景勝との和睦に踏み切り、景勝に自分の妹の菊姫を娶わせた。氏政はこれを勝頼の背信として第二次甲相同盟を破棄し、天正7年(1579年)に徳川氏と、翌8年(1580年)に織田氏と同盟する。これにより、上杉氏の国力が著しく疲弊していく中で武田氏は三方に敵を迎える。関東・伊豆方面では北条氏を圧倒した勝頼であったが、度重なる東海道方面への出兵は武田家の経済状況を逼迫させ、武田家の弱体化の大きな要因の1つとなった。

天正10年(1582年)の織田・徳川・北条勢による武田征伐は、結果的に上杉氏に重大な危機をもたらす結果となった。景勝には同盟者勝頼を支援する余力はなく、武田氏は約1か月で滅亡し、越後と接する旧武田領はことごとく織田領と化して緩衝地帯が消滅し、上杉は全方向を敵に囲まれることになり、これまで戦ってきた北陸の柴田勝家、米沢の伊達輝宗、会津の蘆名盛隆に加えて、信濃から森長可、上野からは滝川一益にも攻め込まれ、崩壊一歩手前まで追い詰められた。しかし、本能寺の変によって織田軍は退却し、織田領となっていた旧武田領は景勝と家康・氏政が奪い合い、景勝は北信濃を支配下に置くことができたが、それ以上積極的な動きをすることができなかった。
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景勝を取り巻く状況は依然として厳しかったが、蘆名盛隆が天正12年(1584年)に、伊達輝宗が翌13年(1585年)に相次いで死んだことにより、後ろ盾を失った新発田重家に対しようやく有利に戦いを進められるようになった。天正14年(1586年)、信長の後継者争いを勝ち抜いた羽柴秀吉が、石田三成を通じて景勝に臣従を求めてくると、景勝は上洛して秀吉の傘下に入った。以降、景勝は秀吉の全面的な支援の下、重家を討ち取り、佐渡、出羽庄内を領有する。豊臣政権に早くから服従した景勝は秀吉からの信任が厚く、慶長3年(1598年)に秀吉の命により会津に移封される。会津への移封は東北諸大名と家康の監視と牽制という重大な使命が科せられ、結果的に家康との対立は避けられないものとなる。関ヶ原の役の直接の原因となった景勝は、慶長6年(1601年)には米沢へ減移封され、信越に覇を唱えた上杉家も景勝一代で東北の一大名へと没落した。

2009年04月22日

二世皇帝、三世皇帝

始皇帝からはじめて二世皇帝、三世皇帝と続ける予定だったが、始皇帝の死後、反乱が相次いだため、秦の皇帝は二代で終わった。始皇帝から数えて3代目である嬴子嬰は、始皇帝死後の反乱のために、中国全土を支配することができなかったために、単に「王」と称した。始皇帝の死後、反乱を起こした者たちは、次々と各地で、「王」を称した。中でも、戦国時代の楚の末裔である懐王心は、項羽・劉邦などの助けもあり、秦を滅ぼした後に、各地に並び立った「王」よりも1段上の称号として「帝」の称号を名乗った。その後、義帝(懐王心)を殺した項羽は「西楚の覇王」を称した。項羽を倒した劉邦は漢の「皇帝」に即位し、これより後の歴代の中国の支配者は「皇帝」を名乗るようになった。そして、各地に「王」を封じた。以降、皇帝が王を封じるという図式が成立した。また、「帝」の称号は「皇帝」の略として広く使われるようになった。

ただし唐代には、高宗が皇后武則天の影響で「天皇大帝」という別称を採用した時期もあった。

中華思想では、皇帝は地上の支配者であり、周辺諸国の君主よりも上に立つものとされた。皇帝と周辺諸国との交流は、周辺諸国の君主が皇帝の徳を慕って使節を送り、皇帝がそれを認めてその君主を王として冊封するという形をとった。中華の秩序の上では近代的な国境という概念はなく、したがって皇帝の支配する領域という意味での「帝国」という言葉も使われなかった。

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皇帝の乱立
三国時代、中原を支配した魏のみならず、呉、蜀の君主もそれぞれ皇帝を称し、五胡十六国時代や五代十国時代など中央の王朝の力が弱まった時代には、周辺の勢力の君主も皇帝を名乗るようになった。南北朝時代には2人以上の皇帝が同時に存在した。

軍事力に劣った北宋の皇帝は、北の異民族王朝である遼、金の君主を皇帝と認めた上で自らを格上(叔父と甥の関係、兄と弟の関係などと表現された)に位置付け、辛うじて面子を保たざるを得ず、中国君主が地上の唯一の皇帝であるという東アジアにおける理念を自ら覆した。金と南宋に至っては、南宋の皇帝のほうが格下という位置付けになってしまった。

また、日本の天皇のように中国の皇帝の冊封体制にない周辺国の君主は、自ら皇帝を名乗って、中国を除く周辺諸国に皇帝として振舞おうとした。朝鮮の高麗朝の草創期やヴェトナムの阮朝のように、中国王朝に朝貢しながら国内に向けては密かに皇帝を称することもあった。

近代には、日本と清との間で下関条約が締結された後の1897年、朝鮮国(李氏朝鮮)が、清の冊封体制から離脱したことを明らかにするために、王を皇帝に改め、国号を大韓帝国(1897年 - 1910年)とした例がある。

2009年04月18日

水災被害の3要素

水害・土砂災害(総称して水災害と呼ぶ)による被害(水災被害)は、次の3つの要素から構成される。

被害ポテンシャル
水災害によって被害を受ける対象物の量・金額。例えば、河川の氾濫原に住宅地が形成されると、被害ポテンシャルは高まる。
外力規模
水が人間生活圏へ与える力の大きさ。雨量、河川流量、水位などの指標で表される。
治水容量
河川や遊水池の流下能力・収容能力。
水災害による被害は、被害ポテンシャルまたは外力規模が大きくなると増加し、治水容量が大きくなると低減される。外力規模は、降雨量など自然のはたらきに左右されるものであり、人間の力によって増減させることがほとんど不可能であるため、所与条件と考えることができる。

治水対策の3方針
前節に見たとおり、外力規模を所与条件として扱うとすると、水災害の被害を軽減させるためには、(1) 被害ポテンシャルを調整・減少させること、(2) 治水容量を増大させること、(3) (1)と(2)の両者を融合した総合的な治水対策、の3つの対応が導出される。以下、3つの対応方針を概観する。
チャリティー ギアチェ ハンドカ ブートニア あらいそ ソフロニ 潮風の迷子 さらべつ マーキ キャンディ ジェット シャドウ ギガビット 花御所 クロサス インス 氷の炎 ブラフ バーター オサォー ヤッケ テール ファウスト サマー シンジュ ユーディ リニア サーチワキ ケース かしど トロンビン シービー ヨモギ サーチャ ビブラ オータム ギニア ダイス フリー プレカリ ノンポリ テトロン マハー あぜみち しゃりき マッスル プロビジ ビュライト ロードシ カの風

被害ポテンシャルの調整・減少
被害ポテンシャルを軽減させるためには、水災被害を受ける対象物を調整・減少させる必要がある。この対策は、水災害が発生しやすい地域の被害ポテンシャルを増やさず、小さくすることであり、極端に言えば、水災被害を受ける可能性のある地域に居住しなければ、被害ポテンシャルはゼロになるのであり、ゆえにこの対策は抜本的なものだと言える。
この対策の例を挙げれば、河川氾濫域での土地利用を制限・規制すること、水害危険性の高い地域からの住民の撤退、警戒避難体制の充実、水害危険性に関する情報提供などがある。住民自らが水害に対処する水防の充実も、被害ポテンシャルを軽減する重要な方法の1つである。
逆に、例えば河川氾濫域で住宅が増加するなど都市化が進むと、被害ポテンシャルは増大する。被害ポテンシャルを軽減しようとするならば、警戒避難体制の充実や水害危険性の情報提供といったソフト的な被害ポテンシャル軽減策が重要となってくる。

治水容量の増大
これは、構造物(堤防など)建設に代表される対策であり、伝統的に治水対策の主流であった。例を挙げると、堤防を築く、河床を浚渫する、河道を拡げる、放水路を設置する、ダムや遊水池で河川流量を調節する、氾濫原を保全・復元するなどであり、河道・ダム・遊水池・氾濫原による洪水処理の対応能力を高めるものである。
治水容量を計画する際、過去の最大外力(流量・水位など)が基準となっていたが、その後、どの規模の水害がどの頻度で発生するか、という確率洪水が新たな基準として採用された。確率洪水をもとにして、治水計画の規模が策定されている。
欧米・中国の治水水準を見ると、例えばオランダのライン川は1250年 - 1万年に一度の洪水規模に対応しているほか、イギリスのテムズ川は1000年に一度、フランスのセーヌ川は100年に一度、オーストリアのドナウ川は1万年に一度、ハンガリーの同川は100年に一度、アメリカのミシシッピ川は500年に一度の洪水に対応している。また、中国の長江は三峡ダム建設後は1000年に一度の洪水に対応できる予定となっている。一方、日本でも100年 - 200年に一度の洪水に対応することが指向されているが、実際は30年に一度の洪水が治水計画上の目標とされることが多く、その目標すら60%程度しか達成していない。日本の治水容量対策は欧米・中国に比べると非常に低いレベルにとどまっている。
総合的な治水対策
「被害ポテンシャルの調整・減少」と「治水容量の増大」の両者をバランスよく組み合わせたものを「総合的な治水対策」という。総合的な治水対策を進めるには、その河川水系に関わるすべての関係者(中央政府・地方政府(自治体)・NPO・住民・企業など)が一体となって取り組む必要がある。例えば日本では、この総合的な治水対策は次のとおり類型化されている。
総合治水対策 - 被害ポテンシャルの調整、治水容量の増大、流域貯水・浸透・遊水の機能強化による外力規模の調整を体系的に進める治水対策である。特に都市化が進んだ河川流域で実施されている。日本では水害危険性の高い氾濫原での都市化が進んだ。都市化の進展に伴い、降水の地中浸透が弱まるので短時間にピーク流量に達し、いわゆる都市水害が発生しやすくなっている。これに対応するため、総合治水対策では、土地利用の規制、保水機能の強化、遊水機能の保全などを実施する。具体例を挙げれば、地下河川の建設や都市河川の環境復元などがある。
超過洪水対策 - 洪水は、その規模が大きくなるほど発生確率は低くなるが、発生しうる洪水の規模には限界がない。治水はある危険性を想定して行われるが、その危険性を超える洪水が発生した場合にも、何らかの対応策をあらかじめ講ずる必要がある。これが超過洪水対策である。例えば、大規模な洪水にも耐えうるスーパー堤防を築く、想定氾濫域の家屋をかさ上げする、氾濫域の土地利用を制限する、氾濫域の情報を住民に周知する、などの対策群からなる。
流域治水対策 - 河川だけでなく、流域全体で取り組む対策を流域治水対策と呼び、先に挙げた総合流域対策と超過洪水対策を組み合わせた対策だと言える。流域治水対策を体系化すると、次表のとおりとなる。

2009年04月04日

個人による金銭授与

現代で八百長と言われるのは個人による金銭授与の敗退行為のことだが、出来試合のようなものは無くはなかった。神事や占いとしての相撲では、「独り相撲」(力士は一人で土俵に立ち神と取り組む仕草をする。神の機嫌を取るため、わざと転がって負ける)や、凶作不漁の見込まれる土地の力士に勝ちを譲ることも普通に行われていた。江戸時代の木戸銭を取っての興行でも、力士の多くが大名のお抱えだったせいもあり、力士当人や主君の面子を傷つけないための星の譲り合いや、四つに組み合って動かず引き分けたり、物言いの末の預りの裁定なども多かった。

観客としては、大名の意地の張り合いによる八百長相撲には腹に据えかねていたが、落語の「谷風の人情相撲」など、美談としての片八百長、いわゆる「人情相撲」には寛容だったようだ。

明治に入って近代スポーツの精神が輸入されて以降、見世物としての相撲からスポーツとしての相撲の特色が濃くなり、昭和の東西合併の時期に預りの廃止などが行われた。だが、この時期にも出羽海部屋の派閥争いの関係で八百長の様な話が出たりもした。玉錦はこういった依頼を断っていたのではないか、といわれている。

なお、現在でいう意味での個人による八百長疑惑が取りざたされるようになったのは、大鵬と柏戸の一戦の疑惑が取りざたされた頃からである。

他に現在見られる状況としては、大関は優勝に関係が無い場合勝ってもあまり意味がないことから、終盤観客視点からは星の譲り合いのように見えることがあり「大関互助会」と揶揄されたりもする。また、7勝7敗の力士の勝率も似たような結果になってしまっている。このため、統計的には八百長はあるということになってしまうとみなす外国の学者もいる。


告発について
大相撲の八百長疑惑では、1980年から週刊ポストが元十両・四季の花範雄の八百長告発手記を初めて公開し、その後も元力士や元角界関係者による告発シリーズを約20年にわたり掲載した。中でも1996年に部屋持ち親方としては初めて11代大鳴戸(元関脇・高鐵山孝之進)の菅孝之進と元大鳴戸部屋後援会副会長の橋本成一郎が行った14回にわたる告発手記は、八百長問題・年寄株問題・暴力団との関わり・角界の乱れた女性関係などを〈暴露〉し、大きなインパクトを与えた。

この時は、協会が告訴する事態にまで発展した。それを纏めた11代大鳴戸親方の著作として、『八百長―相撲協会一刀両断』(1996年、ラインブックス)が出版された。しかし、この著書の発売直前に、告発者の菅孝之進と橋本成一郎が「同日・同じ病院・同じ病気」で急死した。事件性も疑われたが、結局は病死ということで処理された。当時は週刊誌で騒がれ、今でも謎の残る「怪死」だと告発者を支持する側は主張している。

その4年後の2000年、11代大鳴戸親方の弟子だった元小結・板井圭介が外国人記者クラブで、大相撲の八百長問題を語った。それまでも、週刊ポストで元力士らの証言は繰り返されていたが、元三役力士からの証言はこの時が初でしかも記者会見で当時の現役力士の実名を挙げての暴露だったこともあり、角界だけではなく世間一般にも大きな衝撃を与えた。その後板井は、『中盆―私が見続けた国技・大相撲の“深奥”』(2000年、小学館)を出版した。ここでは、中盆(板井の主張する角界隠語で、八百長を取り仕切る仲介・工作人の意)として君臨した板井の証言が著されている。菅孝之進の告発本との共通点も多く見られる。

この師弟の主張は、おおむね次のようなものである。

『大相撲の八百長は完全にシステム化されており、大きく分けて星の「買取」と「貸し借り」の2つに分けられる。買取は主に常に好成績を求められる横綱・大関などが地位を守るために使用する。貸し借りは三役以下の平幕力士同士が勝ち越すためや、十両に落ちないようにするための手段として使用する方法である。横綱・大関の買取は70万?100万円くらいが通常の相場であり、貸し借りは先に対戦相手に頼むほうが40万円を支払うということになっている。横綱大関同士などの優勝が懸かった一番や、大関、横綱昇進の懸かった取組みなどでは相場はもっと上がり、200万?300万にもなることもあるという。あと、部屋の親方が所属力士のために八百長工作に動く場合もある。八百長の代金の清算は場所後の巡業などで付け人が関取の意をうけて行うのが通例。

力士はおおよそ、八百長力士(注射力士ともいう)と非八百長力士(ガチンコ力士ともいう)に判別される。大相撲の八百長は、実力に裏付けされていなければ、この八百長力士のグループには組み入れてもらえず、やはり真剣勝負(ガチンコ)で勝つ力がなければ地位は保つことはできないとされている。横綱・大関にしても、「この横綱・大関とガチンコで勝負しても勝てない。だったら星を売ってカネにしたほうがいい」と思わせる実力がなければ地位は保てないとされている。関脇までは、ガチンコ力士でも、やはり横綱・大関に上がると地位に見合った成績を上げなければいけないプレッシャーからか、八百長に手を染めてしまう力士もいる。大相撲では、どんな強い力士でも取りこぼしというものが存在し、とくに負けることがニュースになってしまう横綱・大関はより確実に勝利を重ねるために八百長で白星を保障しておくという意味合いが強く、横綱・千代の富士などはその典型だったといわれている。そうすることによって強い横綱に取りこぼしがなくなりより一層確実に好成績をあげられるというわけである。平幕力士の場合は横綱・大関陣との対戦が多い、上位(三役?前頭5枚目)で星を売ったり、貸したりして番付が下がった翌場所に平幕下位(6枚目以下)で貸している星を返してもらい勝ち越して幕内力士としての地位を保つをいう手段が多くみられた。ただし、これもガチンコでしっかり何番か勝てる力がなければ勝ち越すことはできない。ガチンコで何番か勝つ実力がなければ、例え八百長をしていても勝ち越すことはできず地位を下げていく事になってしまう。

ただし、八百長が横行していた15年?20年前の千代の富士全盛時代に比べると、現在の角界における八百長は少なくなったと言われている。それには生涯ガチンコを貫いて22回の優勝を果たした横綱・貴乃花(現貴乃花親方)の影響が大きいと言われている。最近、兄弟の確執問題で話題になった平成7年九州場所千秋楽の優勝決定戦、若乃花-貴乃花戦が八百長だったのかという議論は八百長ではなく、貴乃花親方が「やりにくかった」と回顧しているように「無気力相撲」の類に当るだろう。あの一番においてはあまりにも貴乃花のほうに「やりにくさ」「力が入っていない」というのがミエミエであり、八百長相撲の取組みというものは、一般のファンなどの素人にはわかりにくいようにするために「熱戦」に見せかけるものであるために、ああいった一番は八百長とは言わないのである。無気力相撲と八百長相撲は意味合いが全く異なり、ガチンコ力士であっても自らの調子が悪かったり、相手に対して手心があったり、様々な状況からやりにくさがあれば無気力相撲になることもありえる。八百長相撲というのは金銭のやり取りから、予定調和された一番のことを意味する。こうした角界の八百長のシステム化は昭和30年代の初めから行われ始め、40年代に確立した。また、大乃国は、師匠譲りのガチンコ力士との評判があり、国民が注目し大きな話題となっていた千代の富士の連勝を止めたことや、歴代横綱で唯一の負け越しをしたことなどがその評判に根拠を与えている。

日本相撲協会は週刊ポストが国民栄誉賞まで受賞している横綱・千代の富士らなどの実名をあげての告発が20年に亘ったにも拘らず、告訴は1度しかしておらず、それも元大鳴戸親方の手記の一部分を告訴するという特殊な方法でしか告訴していない(後に不起訴)。また板井の記者会見や手記に関しても何ら法的手段に訴えておらず、そこをとらえて〈角界に八百長が存在している〉ということは事実だと考える者もいる。

ただし好角家の中には、相撲は本来、五穀豊穣を願う儀式が起源になっており、歌舞伎や能楽と同じように伝統芸能でもあり、他のプロスポーツなどとは違ったものである故、八百長は角界の必要悪でもあるという意見もある。[要出典]

関連法
刑法
186条2項
賭博場を開張し、又は博徒を結合して利益を図った者は、三月以上五年以下の懲役に処せられる。
競馬法
第31条
次の各号の一に該当する者は、三年以下の懲役又は三百万円以下の罰金に処する。
3. 競走について財産上の利益を得、又は他人に得させるため競走において馬の全能力を発揮させなかった騎手
自転車競技法
第60条
競輪の選手が、その競走に関して賄賂を収受し、又はこれを要求し、若しくは約束したときは、三年以下の懲役に処する。よつて不正の行為をし、又は相当の行為をしなかつたときは、五年以下の懲役に処する。
モーターボート競走法
第72条
競走の選手が、その競走に関して賄賂を収受し、又はこれを要求し、若しくは約束したときは、3年以下の懲役に処する。よつて不正の行為をし、又は相当の行為をしなかつたときは、5年以下の懲役に処する。
小型自動車競走法
第65条
小型自動車競走の選手が、その競走に関して賄賂を収受し、又はこれを要求し、若しくは約束したときは、三年以下の懲役に処する。よつて不正の行為をし、又は相当の行為をしなかつたときは、五年以下の懲役に処する。
スポーツ振興投票の実施等に関する法律
第37条
機構の役員若しくは職員又は第十条第四号から第六号までに掲げる者(試合関係者)が、その担当する第二十四条に規定する業務に係る職務又はその関与する指定試合に関し、賄賂を収受し、又はその要求若しくは約束をしたときは、三年以下の懲役に処する。これによって不正な行為をし、又は相当の行為をしなかったときは、五年以下の懲役に処する。

オメガ みしょう リプロヘル ひらがね 神の手 マップ るりこん ウシュ とよのか ブランデー タイプ リンギット ストール スキット ダビデ ケトル アグリ リーマン カサブ ラリアット ブライ バーン レジオ シザ イリノイ 誠の旗 こりんき サンキライ ひすい えーがた オーロ マルチ ジルコン セコンド ラダーラ ハラル アシン リトラコ リバティ フリー ヘメロ シャチ モッズ ロータリ タォマ ザール ハウリン もちがせ 紅の水 ダン

2009年03月20日

シュパイアー大聖堂

シュパイアー大聖堂は、ドイツの都市シュパイアーに聳える赤い砂岩でできた巨大なバシリカ式聖堂である。その正式な名称は「聖マリア・聖ステパノ大聖堂」だが、しばしばシュパイアーの皇帝大聖堂(Kaiserdom zu Speyer)とも呼ばれる[1]。

廃墟となったクリュニー修道院とともに、シュパイアー大聖堂はロマネスク様式最大級の聖堂である。1981年に大聖堂はユネスコの世界遺産に登録された
この大聖堂はコンラート2世が自身の永眠の場所として建造するよう命じたもので、1030年から1061年にかけて建造された。のちには、さらに7人の神聖ローマ皇帝、ドイツ王たちやその妻の幾人か、そして多くの僧侶たちが葬られた。皇帝たちや王たちの墓石は、元々は聖餐台正面の中央通路に位置していたが、長い年月の間に正確な位置についての知見は失われていた。1900年になって一大発掘計画が実行され、墓所が発見され、開かれた。そこで発見された中身のいくつか、つまり服飾品などは、大聖堂近くのプファルツ歴史博物館で見ることができる。皇帝や王たち、そして幾人かの妻たちの修復された柩は、1906年に聖餐台の地下に建設された地下聖堂(Krypta)に安置しなおされており、一般にも公開されている。

シュパイアー大聖堂に葬られた皇帝たちや王たちは以下の通りである。

コンラート2世(1039年没)とその妻ギゼラ(Gisela, 1043年没)
ハインリヒ3世(1056年没)
ハインリヒ4世(1106年没)とその妻ベルタ(Bertha, 1087年没)
ハインリヒ5世(1125年没)
ブルゴーニュ女公ベアトリス1世(Beatrice I, 1184年没。フリードリヒ1世の二人目の妻)とその娘アグネス(Agnes)
フィリップ(1208年没。フリードリヒ1世の息子)
ルドルフ1世(1291年没)
アドルフ(1298年没)
アルブレヒト1世(1308年没)
ドイツでこの時期に皇帝の示教で建てられた他の大聖堂(ヴォルムス、マインツ)と同じく、この大聖堂も「皇帝大聖堂」(Kaiserdom)と呼ばれている。


修復の歴史 [編集]
シュパイアー大聖堂は、ルイ14世の配下の兵士たちによって、1689年に焼かれ、無残なありさまになった[3]。1772年から1784年に修復され、前庭とファサードが付け加えられたが、1794年にまたしてもフランス軍によって荒らされた。これに対し、1846年から1853年にかけて、もう一度修復が行われた。 このときの修復はフレスコ画で内装を飾ることなども含めた徹底的なもので、バイエルン王ルートヴィヒ1世が出資した。

1961年には創建当時の姿に戻す修復工事が行われた。


建造物としての特色 [編集]
修復を繰り返してはいるが、建造物は本来の様式を良く保存しており、絶えて久しい純粋にして明確なロマネスク様式を伝える最も優雅な例の一つとなっている。顕著な特徴は、建物全体を取り囲む柱廊であり、まさにそれらは屋根のラインの真下にあたっている。三列の側廊を持つアーチ型天井のバシリカ式聖堂は、11世紀から12世紀にかけて発展していったロマネスク建築の中で、極めて強い影響を及ぼしてゆくデザインの白眉である。

大聖堂の中でひときわ優れているのは、東端と西端の配置のバランス、そして身廊と翼廊からなる本体の四隅に配置された塔の対称形の配置である。

西のファサードの前にある「大聖堂の鉢」(Domnapf)は、かつては宗教的な領域と市域を分かつものであった。新しい司教が選出されるたびに、その者が鉢にワインを満たし、市民たちは彼の健康を祈って空にした。

南の庭園にあるオリーブ山の彫刻は、かつては大聖堂の南壁に繋がっていた回廊の中央に置かれていた。15世紀以来の本来の彫刻群が破壊されたことから、19世紀にはシュパイヤーの彫刻家ゴットフリート・レン(Gottfried Renn)が現存する一連の彫刻群を作製した。かつての回廊の面影はオリーブ山周辺の歩道に見出すことができる。

ニンソウ フウラン ヒップ バビリン 竹の舞 しずくいし ヤッピ つばめ くりたけ クラー うたま ウシや ガーズ オーデエ タッチ じょうぼう モウセン セプタム パラセ スパイク フェロ くらし やさしい サブミッ コール スイマー フラン フマン スモー ちずい バスラ ほこたし クロムダ プレパラー つるむ レターイン ストーン イルミネ スピンタ イルマン ルリナ テスト ばなな メリー コリン パーベ リッチ かずら ドライト オリジ

寸法 [編集]
全長 : 134 m (入り口の段差から東の後陣の外壁まで)
身廊の幅 : 37.62 m (外壁から外壁まで)
ヴォールト頂点までの身廊の高さ : 33 m
東の尖塔の高さ : 71.20 m
西の尖塔の高さ : 65.60 m
地下聖堂 : 東西の長さ 35 m ; 南北の長さ 46 m / 高さ: 6.2 m と 6.5 m の間

2009年03月05日

シーサーペント(sea serpent)

シーサーペント(sea serpent)とは、海洋で目撃、あるいは体験される、細長く巨大な体を持つ未確認生物(UMA)の総称である。特定の生物を指すものではない。大海蛇(だいかいじゃ)とも呼称されている。

正体が特定されたものはほとんどなく、大部分は正体不明で未知生物学者の主要な研究テーマとなっている。目撃例は中世以降多数存在し、中世から近代にかけて作成された世界地図の海洋を示す部分にはシーサーペントの絵が記されていることが多い。

ニュージーランド沖のシーサーペント
1977年4月25日にニュージーランド沖で日本の漁船瑞洋丸が引き上げた巨大な死骸。通称ニューネッシー。かなり鮮明な写真が撮られ、組織も採取されたが本体は強い腐敗臭のため海洋に投棄された。

写真に写っている姿が中生代に実在した首長竜のプレシオサウルスに似ていたためセンセーションを引き起こした。東京水産大学を中心とする研究グループは1978年8月にこの生物に関する調査報告書を発表したが、その報告書ではウバザメ説、爬虫類説、新種の生物説などを挙げてはいるが正体について断言はしていない。

モーガウル(Morgawr)
イギリス、コーンウォールのファルマス湾でたびたび目撃されていると言う巨大な生物。多数の目撃証言とはっきりしない写真が存在する。目撃証言によると、頭に角が生えた首の長い生物で、首の後ろには毛が生えていると言う。大きさは6m?12m。

チェッシー(Chessie)
アメリカのチェサピーク湾で頻繁に目撃されていると言う巨大な生物。多数の目撃証言とビデオが存在する。目撃証言によると体長3m程度の生物で背中にコブがあり、ギザギザのある小さな突起が付いていて、頭はサッカーボールのようであると言う。ビデオに写っている生物は左右に身をくねらせて泳ぐ12mくらいの生物であると言う。

ロベール・ル・セレックの大海蛇
フランス人のロベール・ル・セレックが遭遇したと言う巨大な生物。 目撃証言と写真が存在する。 現在では目撃証言・写真ともに偽物であるとされている。

イベリアン号のシーサーペント
1915年7月30日にドイツの潜水艦U-28がイギリスの汽船イベリアン号を撃沈したときに、汽船の爆発にまきこまれて海から放り出された巨大な生物。潜水艦の6人の乗組員による目撃証言があり、体長20mほどのワニ状の生物で、頭が細長く肢にはみずかきがあったと言う。

シーサーペントの記述自体は古代からある。たとえば、旧約聖書のヨブ記、イザヤ書などには巨大な生物としてレヴィアタン(リヴァイアサン)が書かれている。これは古代オリエントの世界で蛇かワニのような姿をした伝説の怪物の名前で、イザヤ書(74:10)、詩篇(74:14)では海に住む竜と並んで記されている。

アッシリアの王サルゴン2世はキプロスに向かう航海の途中でシーサーペントに遭遇したと言う。東洋の伝説上の動物「竜」も水と関係が深く、姿形にもシーサーペントと共通する部分がある。

しかし、古代の伝承は神話や伝説などに彩られており、生物学的な検証には耐えるものではなく、大抵はクジラや海牛類、リュウグウノツカイなどの現在における既知の生物の目撃例であったと考えられる。

中世以降ではデンマークの司教ポントピダンが「ノルウェー博物誌」(1752-1753)の中で2種類のシーサーペントについて記している。オランダの動物学者A・C・ウードマンスは1892年に「大海蛇」を著し、多数の目撃証言を科学的に検証し長い首と長い尻尾をもったアザラシのような未知生物がシーサーペントの正体であるとした。

20世紀以降も広大な海洋にて、数百件から数千件の大量の目撃証言と、若干の写真・ビデオがある。

世間の評価
一般にはシーサーペントはあまり知られていないか、幽霊や宇宙人と同列にオカルトとして扱われている。また、しばしばネッシーやイッシーなど湖沼の未確認生物と混同される。

本来はシーサーペントの研究は未確認の生物を科学的に追求するものであり、海外ではそれほど多くはないが未知生物学者として専門的にシーサーペントを研究している者もいる。

日本では、シーサーペントは一部の好事家マニアの間で議論の対象となっているが、彼らのほとんどは学者ではなく、科学的な態度で臨んでいるものでも1次資料、2次資料に資料的な分析を加え、生物学の知識を基に考察しているに過ぎない。

ただし、認知度が高いものはキャラクター化され、アニメなどと同列に扱われた例がある。たとえば、ニューネッシーが知れ渡ったときには漫画化され、ぬいぐるみが発売された。カナダでは20世紀初頭にキャディと呼ばれるシーサーペントがメディアにアイドル的な扱いを受けた。また、チェッシーはチェサピーク湾のマスコット的な存在となっている。

検証
目撃証言
たとえば、いくつかの証言では「たてがみのような毛が生えていた」、「潮を吹いていた」、「上下に身をくねらせて泳いでいた」などと哺乳類的な特徴がうかがえる。シーサーペントの一般的なイメージは巨大な蛇状の爬虫類というものであるが、目撃証言では哺乳類的な特徴を示すものが多い。また、別のいくかの証言では「ワニのような形であった」、「亀のような頭であった」などど爬虫類的な特徴がうかがえる。

フランスの理学博士ジャン・ジャック・バルロワは目撃証言を検証した結果シーサーペントを次のように分類している。

1種以上の魚類 - かなり巨大なウナギ状の未知生物。大ウナギ、スーパーイールとも呼ぶ。1930年1月31日、デンマークの海洋調査船ダナ号は南大西洋で体長1.84mのレプトセファルス(ウナギなどの稚魚)を捕獲した。他にも巨大なレプトセファルスの捕獲例はいくつかあり、これらが成魚になったときにはシーサーペントと呼べるほどの大きさになる可能性がある。ウナギの場合は5cm程度のレプトセファルスが20倍も大きい1m程度の成魚になる。ただし、すべてのレプトセファルスが20倍も大きくなるわけではなく、深海魚の一種トカゲギスの中には、レプトセファルスに似た形態のまま、ほぼ成体の20cm程度まで成長するものがいる。
1種以上の爬虫類 - モササウルス。横に身をくねらせて泳ぐのは爬虫類の特徴であり、ワニ状の生物の目撃証言からシーサーペントの1種はモササウルスまたはそれに類似した爬虫類であるとする。モササウルスは白亜紀に生息した巨大なワニ状の海棲爬虫類である。
5種の哺乳類
スーパーカワウソ - 昔鯨類に属する未知生物。北極海周辺に生息するとされる。
多びれ - 昔鯨類に属する未知生物。ヴェトナム・マダガスカルなど熱帯の海に生息するとされる。「ムカデ」、「オオムカデクジラ」と呼ばれている未知生物がこれに当たるとされる。
多こぶ - 昔鯨類または海牛類に属する未知生物。北アメリカの大西洋側に生息するという。
ウミウマ - アザラシなどが属する鰭脚類の未知生物。ウマのようなシーサーペントの正体はこれであるとされる。(キャディの消失した死骸の残された資料はこの正体を示している可能性がある)
長首 - 鰭脚類に即ずる未知生物。長い首をもったアシカのような未知生物が存在すると言う。
その他の研究者もさまざまにシーサーペントを分類している。 ユーヴェルマンは上記の他に以下の候補を挙げている。
ジゴロ ちなアク スローモー ハネウェル トップ ション ウオッチ シンシ 検索ノブ セザンヌ ビーボーイ カーペット フォルダー ランサス ブラウィン ほしゃWE はないずみ セイレー ノンカロ もののふ リターン チロキシ メークイン ワイルド 検索丸玉 オーバー シップブ じゃんけん フュー サブレ とくとう ジャカ ミドル タッチ ガイド レバレ ハイテン メーンス ミヤマキ ごゆう カンマキ ヘーベ ナリー リステ オハイオ シンテニー ミント ダンヒ ピント スクワット

巨大なサメ - これは絶滅生物であるメガロドンを指しており、多くの目撃証言は確かにメガロドンを指しているように見える。ただし、一部でメガロドンの映像として駿河湾で撮影されたオンデンザメの映像が流出しているが、この駿河湾で撮影されたオンデンザメは7mもの巨体であった。
あらゆるカメの父 - 途方もなく巨大なカメ。
巨大オタマジャクシ - 黄色に黒い縞が入ったオタマジャクシ状の生物が存在する可能性があるという。
巨大な無脊椎動物

大型海棲生物の発見例
1976年に体長4m以上の未確認の魚類が捕獲されている。この魚類は後にメガマウスと命名され、現在でも世界で30体程度しか捕獲されていない。つまり、少なくとも体長4m程度の生物が誰にも気がつかれることなく存在していたのである。なお、メガマウスの生態は良くわかっていないが、現在のところ最大のものは5.44mであった。

2001年にはインド洋の深海で全長7mの新種のイカが発見されている(「サイエンス」)。

また、全長が6m程度になるオウギハクジラ属は近年2種の新種(こちらは3-4m程度)が記載され、その深海棲の生態から未発見の種が存在するとされる。また鹿児島に漂着したタイヘイヨウアカボウモドキはこれまで数体の死骸でしか知られない幻の鯨であった。


2009年02月13日

Close 2U 〜最後の夏休み〜

もともと同人版として発売されたものを商業版へとリメイクしたものである。同人版のボリュームは小さかったため、商業版へのリメイクにあたって、同人版続編として予定していたガジェットを繰り上げて盛り込んだ形となっている[1]。同人版が初のCD-ROM作品だったという経緯もあり、製品版もシステムに粗の目立つ部分も多い[2]。しかし、シナリオエンジン「ransel(ランドセル)」がスタジオミルクの苺みるくブランド(スタッフは本作と同じ)で発売されている『たんぽぽ 〜Everything Nice〜』に受け継がれているなど、後続作品に影響を与えている作品となっている。
バイオ ハノイ サイト宇宙 セット リーテール たましぎ みたか ニューロ れっど ファンタ アカシデ ひびき ちゅう フォルテ ターミ アイテム セルラ ハイブリ バロッ ファザ 紫キャベツ ライフ ナビキュー 仲よし ネリネ ピープ モデル 龍馬太鼓 きんさ ダウン スリル シームレス スピーチ ドクゼ オフィス ナビデモ スルー シアトル マツム ルーム リアクター デイキ ロースラ モトロ オブジ サンタ マキシ リボソーム デパチ クンミン

ゲーム開始時に双子の2人のいずれかをプレイヤーキャラクターとして選択することができる。選択によって仲良くなれる女の子が限定される。

サーフィンのプロを目指す双子の兄弟、涼と毅。今年は最後の夏休み。ただ夢を追いかけるだけじゃなく、何か想い出を作ろうと思った。明音島を舞台とした俺たちだけの物語が始まる。

風間涼(かざま りょう)
主人公の双子の兄。6年生。クールで2枚目、頭もよい。サーフィンは父親の趣味を受け継いだものであり、兄弟そろってプロサーファーを目指している。
風間毅(かざま たけし)
主人公の双子の弟。6年生。元気で明るい性格だが、勉強のできはあまりよくなく、この夏も学校の補習に苦しめられる。
夢崎あずさ(ゆめざき あずさ)
主人公の同級生。6年生。明るい性格で、みんなのアイドル的存在。実際、芸能活動もしており、カラオケでは自分でリリースしている曲を歌ったりもする。
主人公の2人はサーフィンでもライバルだが、あずさをターゲットとした恋のライバルでもある。
風間鈴音(かざま すずね)
主人公の従妹。5年生。身長140.4cm。小さい頃から一緒に妹として暮らしている。引っ込み思案でおとなしい性格。毅のことが大好きだが、兄妹として過ごしてきたため、それ以上の関係にはなかなか進めないでいる。
上条由香(かみじょう ゆか)
主人公のクラスメイト。6年生。7月27日生まれ。明音島で一番お金持ちのお嬢様。学業優秀でまじめ、学校執行部の書記もこなす超優等生タイプ。眼鏡っ娘。光のことが好き。
河合春菜(かわい はるな)
鈴根の親友にしてクラスメイト。5年生。身長127.5cm。体重27kg。芸人根性を持っており、日中に主人公と出合ったときも、ボケとツッコミの掛け合いをするほど。小柄なため、年齢よりも小さく見える。光とは幼馴染である。
牧優子(まき ゆうこ)
主人公の幼なじみのクラスメート。6年生。涼とはきわめて仲がいい。ミニバスケ部のキャプテンをつとめる。
南潤子(みなみ じゅんこ)
主人公と同い年。6年生。学校で一番の美人と言われている。武人と幼馴染。無口で不思議な印象を与える。
青山光
毅の親友。6年生。サッカー少年。春菜とは幼馴染だが、由香のことが気になっている。
近藤武人
毅の親友。6年生。クラス委員長。潤子と幼馴染である。
神崎隆二
サーフィンのライバル的存在。5年生。鈴音のことが好き。
立花先生
ウィンドウサーフィンを教える先生。『たんぽぽ 〜Everything Nice〜』の立花とは親戚筋にあたる。詳細は同作の立花先生を参照のこと。

ゲームシステム
ゲームパートは大きく2つに分かれる。「マップ移動システム」を使用した日中の行動パートと、通常のアドベンチャーパートである。

マップ移動システム
作品の舞台である明音島に移動マスが点在して設けられている。移動マス同士は道で繋がれており、主人公はその日、決められたマス数、マップ上を自由に移動することができる。女の子のいるマスに到達すると、その女の子との会話パートに移行する。会話パートにおいては「縁日に誘う」など、女の子との新密度を上げる会話分岐も含まれている。
主人公は必ず移動しなければならず(待機できず)、女の子も必ず移動する。一本道で近づきつつある場合でも、奇数マス分離れている場合は1マス違いですれ違ってしまう。また、女の子は分岐でどちらの道を選択するかは未知であるため、うまく先回りしないと同一マスに達することはできない。このように、お目当ての女の子と同一マスに到達できるかどうかは運の要素も大きく、このシステムには不評の声が多かった。また、会話パートも使いまわしの文章が多く、アドベンチャーパートでの心境変化を全く反映しない会話であるなどの点も不評であった。
アドベンチャーパート
マップ移動システムでの女の子との親密状況に応じて、アドベンチャーパートで発生するイベントが変化する。「学校での補習」「縁日」「お誕生日会」「肝試し」「練習試合」「温泉旅行」(一部のシナリオにおいては「遊園地」「カラオケ」「花火」「嵐」)など、夏休みにふさわしいイベントが多く盛り込まれている。
前述のマップ移動システムをはじめとして、以下のようにゲームシステムには粗が目立つ点が多く見られた。これらの点は、苺みるくの『たんぽぽ 〜Everything Nice〜』では解消されている。

セーブポイントが1つのみ。また、一日の終わりでしかセーブできない。
CG回想やシーン回想が行えない。
ENTERキーにてメッセージスキップらしき機能はあるものの、未読既読を区別せず、選択肢も強制的に選ばれてスキップされてしまう。
メッセージヒストリ(過去テキストの読み返し)機能が設けられていない。
ゲーム中からタイトルに戻ることやロードを行うことができない。結果、ロードしなおすには一度ゲームを終了して、タイトル画面でロードを選択する必要がある。
未パッチ状態では、シナリオが進まないなどの致命的バグが存在する。

2009年01月27日

支援戦闘機設計チームが設置され

FSXは日米合意によって、1990年(平成2年)3月に支援戦闘機設計チームが設置され、開発が開始された。F-1は延命されているとは言え、1997年(平成9年)にも減数する見込みであり、実用試験などを考慮すると、全く余裕は無かった。

機体概観作りと設計が行われ、飛行性能向上や対艦ミサイル運用のために垂直尾翼以外は全て三菱によって再設計された。「その執拗なまでの徹底ぶりは、「国産」という意地の表れでもあり、エア・インテーク(エンジン用の空気取り入れ口)の形状まで設計し直すことに対し、ゼネラル・ダイナミックスのF-16設計チームが腹を立てた」という話をするものもいるが、実際は国産レーダー搭載によって大型化した機首レドームのためにエア・インテークも改設計せざるを得なくなったものの、超音速衝撃波の制御を日本でできるのか、やらない方がいいのではないかとロッキードが指摘しただけである。これに対しては日本側から改設計した図面を送り、ロッキードでも検証するという作業が行われて設計の正しさが確認されたというものであって、線図一本引き直しても治具から設計をやり直す航空機で必要以上に図面を弄くり回すことは無いといえる。

1992年(平成4年)に実物大模型(モックアップ)が公表された。続いて試作機4機の製作に入り、1995年(平成7年)10月7日に試作1号機(63-8001)の初飛行に成功、XF-2と名づけられた。続いて単座2号機(63-8002)と訓練用の複座1・2号機(63-8003・8004)が進空、1996年(平成8年)1月9日には単座型がF-2A、複座型がF-2Bの名称となることが決定し、3月に防衛庁へ納入されて技術研究本部 (TRDI) による試験に供せられた。7月には日米両政府間で「日本国防衛庁と合衆国国防省との間の支援戦闘機(F-2)システムの生産に関する了解事項覚書」(生産MOU)を締結、F-2の量産が日米両政府間で承認され、航空自衛隊は平成8年(1996年)度から調達を開始した。この覚書により、開発分担比率である機体の40パーセントを米国内で生産するため(先の貿易摩擦対策によるもの)、ロッキード・マーティンに生産ラインが開かれ、日本が部品を輸入して三菱で組み立てられた。

初期不良と配備遅延
試作・試験飛行の段階において、日本が得意とする炭素系複合素材で製作した主翼構造部位に微小な「ひび」(顕微鏡レベル)が見つかる、主翼の一部強度不足が見られる、特定の非対称運動を行った場合に垂直尾翼に予測値を超える荷重がかかる、装備品の特定の組み合わせによるフラッターの可能性、増槽装備時の増槽取り付け部分にかかる荷重、等の諸問題があったため、その原因究明と改修作業により遅れが発生した。先の日米交渉の影響もあり、XF-2の今後に対し懐疑的な報道がなされたこともあった。

なお、不具合の量や質の差こそあれども、飛行試験時において不具合が見つかることは多くの国の機体開発において決して珍しくなく(たとえば翼の「ひび」はアメリカのF/A-18E/F開発時にも見られた。部隊配備後にレーダーの不具合についてはレーダーそのものではなく機体のマッチング、艤装に問題があったと言われている。

レーダー自体に問題があれば、C-1FTBで試験しているうちに判明するが、マッチングは実機を使わないと判明せず、開発経験の問題であり、初期不良の範疇であると考えられる。レーダーの不具合についてはアラート任務(領空侵犯警戒任務)付与を延期するよう航空総隊が意見具申したと報道された。

これらの不具合に対してはその後対策が施され、アラート任務は2004年(平成16年)3月から第3飛行隊(三沢基地)、2007年(平成19年)3月から第6飛行隊(築城基地)に付与された。
バス ブラックタ アセアン 水辺の旅 ルコギ プルメリア リッチシ チョック タンク スクーター ナベル ジャポニ ドラル 朝ごはん はばね 忍耐最適 ファイリン バキュー ソネット ローマ わこう オート パナ フェレット ハイム 虹のパノ スケジュ ユーカリ オパール オリジ キャラバン ハット テロロ ケーオー オフセ ちぎれ雲 レース なかせん 相合傘人 テーブル リスク ビップ イースト ミルク オーライ トラン スネーク ネグレクト オート キネシ

その他、アクティブレーダーホーミングミサイルである99式空対空誘導弾(AAM-4空対空ミサイル)を運用できない点を問題として指摘されたこともある。しかしF-2の要求性能を策定した当時にAAM-4はまだ実用化されておらず、1995年(平成7年)に初飛行、1998年(平成10年)に火器管制装置の飛行試験を行う状況で、制式化されていないミサイルの運用能力を持たせるためにAAMの完成を待ってまで開発を遅らせるよりは後日装備とするのは妥当な判断だという見方である。

F-2の量産初号機は2000年(平成12年)9月25日に航空自衛隊に納入された。56中業への記載から19年、当初の配備予定から13年遅れ、F-16改造開発決定以降の配備予定からは3年遅れであった。開発費は3270億円であり、米国による当初見積もりの6000億円には及ばなかったが、日本側予測の1650億円をはるかに上回った。

なお、F-2の配備の遅れにより、3個支援飛行隊体制が維持できなくなることが早期に予想されたため、F-4EJ改を支援戦闘機に転用、その分のF-15を追加調達する処置がとられた。

一部では戦闘能力に問題があるともいわれているが、初飛行から最初の10年間で1機も失われず、単発エンジンながら非常に信頼性の高い機体である。なお、主力戦闘機F-15Jは最初の10年で5機を事故で失った。

FSX計画の評価
この節には『独自研究』に基づいた記述が含まれているおそれがあります。解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください。

FSX計画に際しては、F-1による実績や国内開発派の攻勢による情報リーク、開発時期が後にバブルと呼ばれる好景気に重なっていたこともあり、日本は「国産」への高い期待があったと考えられる。しかし実際にはアメリカとの共同開発という形で落ち着いたのだが、この結果となった理由については、単に技術的にFSXの独自開発ができなかったというよりは、種々の政治的な理由によるものが大きいと言われることが多い。覚書が締結されたのが日米政府間の貿易摩擦があり、日本がアメリカに譲歩し続ける中(牛肉や繊維、オレンジ問題など)でのことであったためである。

また、実際に生まれたF-2A/Bについて、「あの時、国内開発で決定されればより優れた機体ができた筈だ」という意見も存在するが、当時の日本は上記の通り、政治的のみならず技術的・時間的な面から考えても独自開発は困難であったと考えられ、そこから国際共同開発は必要不可欠なものだったとの考えも多い。しかし、FSX計画へのアメリカ世論の反発、いわゆる「不平等条約」による一方的な技術提供や、F-16のソースコードやエンジンの供与に関してのアメリカの渋り、それらのことから読み取れるFSX計画に対するアメリカの姿勢、納期の遅れによる開発費の高騰、それに伴う機体単価の高騰、試験時・配備後を通しての種々の不具合、それらの原因による調達の軒並み削減、等といった数々の問題が相次いだことが、結果として「もし国産だったらこんな結果にはならなかったのでは」といった意見を噴出させる要因となったとも言われる。

その一方で技術面については、当時の日本は自国のみで最新鋭機を開発する能力こそ乏しかったとしても、前述のアクティブフェーズドアレイレーダーのように、部分的なレベルに限定するのであればそれなりの技術を有していたと考えられる。

以上の通り、FSX計画の評価は人によって否定的・肯定的を問わずいくつにも分かれており、単純に「FSXは成功だった」あるいは「失敗だった」とひとくくりに論ずるのは難しい。

機体
単座のF-2Aと複座のF-2Bが存在する。支援戦闘機、つまり戦闘攻撃機である本機は、前任機F-1と同様に対地・対艦攻撃能力に特化した機体である。機体形状はベースとなったF-16とほぼ同じではあるが、航空自衛隊の要求を満たすための改造や再設計箇所が至る所に見られることから「パッと見た形状以外、すべてが違う」などとも言われることがある。

F-2はF-16をベースに日米共同開発された機体であり、F-2には単座型のF-2Aと複座型のF-2Bの2種類が存在している。F-2AがF-16Cブロック40/42、F-2BがF-16Dブロック40/42をそれぞれベースとしている。F-2Bは機種転換及び高等操縦訓練に用いる機体で、後席スペースを確保するために搭載電子機器や燃料容量が減らされている以外はF-2Aと同様であるF-2の生産は三菱重工業のほか、ロッキード・マーティン、川崎重工業、富士重工業、IHI等の各企業が分担して機体の各ブロックや部品を生産し、それを三菱重工小牧工場にて組み立てるという形で行う。日米共同開発のため、米国分開発経費として1機当たり47億円が支払われているとも言われる。また、主翼は左右で製造しているメーカーが異なる。

基本構造
ベース機からの改修点は数多く、胴体は延長され、主翼面積を拡大(主翼面積はF-16C/Dが27.9m?に対し、F-2A/Bは34.84m?)することで重量増加による翼面荷重の増加を抑え旋回性の向上を図っており、同時に水平尾翼やストレーキ(主翼の前方の機体張り出し)も面積が拡大されている。よって、垂直尾翼の形状くらいしかF-16との共通点がない。エンジンはF110-GE-129ターボファンエンジン(クリーン時約75.62kN/アフターバーナー時約131.23kN)に決定され、これをIHIにてライセンス生産し搭載している。機体大型化による重量増加を最小限に抑えるため、翼には炭素繊維強化複合材による一体構造を採り入れている。これらの措置により、機体を大型化しつつも空虚重量をF-16Cブロック40より900kg程度の増加にとどめた9527kg(F-16Cブロック40の空虚重量は約8627kg)としている。

兵装の搭載能力も航空自衛隊の要求に合わせたものとなっており、特筆すべきは空対艦ミサイルを最大4基まで携行出来る独特の機能である。これは周囲を海で囲まれ、また政策によって作戦機の総数を制限されている日本の特殊な事情によるもので、世界的にみても稀有な能力となっている。ベース機のF-16Cブロック40よりハードポイント数も増加されて、両翼端に各1箇所、両翼下に各5箇所[7]、胴体下面に1箇所の計13箇所が存在する。

その他、ステルス性向上を狙った電波吸収材(RAM)の導入、機内燃料容量の増大(F-16Cブロック40の約3896Lに対しF-2Aは約4750L)、着陸滑走距離を短縮する目的でドラグシュートを搭載する等の改修がなされている。全体的な外見はベース機のF-16C/Dと似ているが、細部では改修により変化している点がいくつか存在し、F-16C/Dと判別する際の指標となる。主な点として、大型化し垂れ下がったレドーム、レドームの改修に合わせて形状を変化したエア・インテーク、フレームを2本に増やして3分割化した風防、面積が拡大しテーパー翼とした主翼、ドラグシュートを収容するために延長した垂直尾翼付け根のフェアリング等が挙げられる。