薩摩藩では、島津斉彬が死んだ後、後を継いだ藩主島津忠義の父である島津久光が長州藩を牽制すべく公武合体運動を展開し、藩内の攘夷派を粛清(寺田屋事件)し、幕府に改革を要求した(文久の改革)。島津久光は江戸から薩摩への帰路、生麦事件を引き起こし、翌年薩英戦争で攘夷の無謀さを悟ることになる。
藩内改革派と保守派が藩政の主導権を争っていた長州藩では、1863年(文久3年)5月、馬関海峡を航行中の外国船を自藩製の大砲で攻撃して「攘夷」を決行した。また、京都における主導権争いから薩摩藩らと衝突、1863年(文久3年)8月、三条実美らの七卿落ち、翌1864年(元治元年)の池田屋事件を契機に薩摩藩・会津藩・桑名藩と武力衝突した(禁門の変)。
禁門の変を理由に幕府は、第一次長州征伐を決行、同時期に、英米仏蘭4ヶ国艦隊の反撃に遭い、上陸され砲台を占拠された(四国艦隊下関砲撃事件)。その後、高杉晋作、木戸孝允らが藩政を掌握した。
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このような情勢下、薩摩、長州ら政争を繰り返していた西国雄藩は坂本龍馬、中岡慎太郎の周旋により、同盟を締結(薩長同盟)した。その後、幕府は第二次長州征伐を決行するが、高杉晋作の組織した奇兵隊などの庶民軍の活躍に阻まれ、また、総指揮者である将軍徳川家茂が大坂城で病没するなどもあり、失敗した。